被災直後のブログから
 私どもの北上市は、岩手と言っても内陸部にありますので、地震の被害はあったものの、津波の被害はなかったものですので、人様にお聞かせするほどでもないのですが。
 「辟雍会」会長の鷲山先生にお会いした際の内容のもとです。
 震災後、時間もたってしまいましたが、そのときの気持ちをブログに書いていますので、そちらを載せてみます。
 大地震2011年03月11日16:24
 かなりでかい地震。
 電気も止まって、テレビも見てみたいし…
 至るところで、緊急車両の音。
 あいにく、私の被害は、ものが落ちた程度…
 明日、卒業式だが、大丈夫だろうか、心配です…
 (携帯より"mixi"へ送信)
 揺れる2011年03月12日05:26
 本当に、しつこく揺れています…

 今日は、卒業式なのですが、どうなるのでしょうか?
 停電なので、とても不自由です。
 信号も止まっています…
 ネットもつなげません。
 そして、暖房器具が使えません…
 寒くて、辛いです。

 他のライフラインは、なんとか動いていますが、停電は、いたいですね…
 普通の生活にいつ戻れるのか不安な夜明け前です。
 (携帯より"mixi"へ送信)

 追記:午後9時過ぎ
 電気が復旧しました。とりあえず、このあともどうにかなりそうです。
 食料も特段、一人暮らしで問題もないくらいの備蓄がありますので…
 卒業式の方は、15日に延期なりました…

 色々な面でも今までにない大地震です。
  
 3月13日
 一昨日の大地震から… (以下、全体への公開ブログから)

 そのとき、私は、職場の学校にいました。 その日は、卒業式の前日。
 午前中で準備も終え、午前授業で生徒も帰し…(それが、何よりも幸いでした。)
 お昼は、学年のみんなでご飯を食べてきました。

 そして、職員室にいて、緊急地震速報… 「宮城県沖にて地震」
 すぐに、テレビをつけました…そして、地震…
 最初は、職員室におりましたが…さすがに、危険と言うことで、屋外に…しばらく揺れていました

 ゆれがおさまり、職員室に戻ると、すっかり本棚の本は落ちており…停電となっておりました…

 そして、落ち着いてから校舎を一回り…
 甚大と言うほどではないですが、それなりに被災しておりました…
 しばらくして、自動車も校舎から遠くに移動しました。
 あと、 近所の生徒も驚いて来たりして…対応すること1時間半ほど…

 途中で、妹から電話あり、両親は無事とのこと…

 帰宅の許可もおり…帰宅…しかし、停電中、信号は動かず…相当、危険な思いで帰宅…

 当然、家も停電…ものが散乱…片付け
 そして、日暮れ…しかし、暖房機器も使えないため、寒くなる一方…
 やれることは、携帯のワンゼグを見るだけ…見ていると、電池もなくなるので…
 寝るしかない…でも、揺れています…たまに起きては、ワンゼグを付け…

 朝。 卒業式の予定…どうなる?

 学校集合6時半…ガスだけは使えるので暖めておじやを作り、食べて出発。
 当然、信号はつかず…

 学校行くと、結構集まっていまして…卒業式は中止。そして、その対応。その後、帰宅。

 結局、停電でやることなしの日。 寒いし…テレビもつかない…

 結局、電気が通じた9時近くまで、布団にくるまっておりました。
 その後、やっと、活動して、また、寝て、起きて掃除して、現在に至ります。」

 3月14日
  今日は、地震の後の話…

 地震当日は、電気が止まり、信号も止まり…危険な道を命かながら、自宅にたどり着き…
 今までにない状況なので、脇目もふらずにたどり着いたぁって感じでした。

 次の日は、卒業式予定日でしたので、学校に6時半。
 停電のため、日の出とともに起き上がるしかないので、少々遅れて到着。

 そのあと、卒業式の延期等の関連業務等…外立ち1時間。
 ラジオに学校の情報が出ること7時45分。
 しばらく、ラジオやらネット(NHKがユーストで流されていまして…ドコモからネットに経由、電源を自動車からとった人がいて)を見たり、
また、学校の巡回をしたりして… 
 帰宅許可おり帰宅。

 スーパーが何件か開いており、さすがに、人だかり。 近所のスーパーに寄ろうと思ったが、あまりの人の多さに断念。 例えるなら、まるで、戦地のよう。
 帰宅。当然、停電。
 しかし、ガスは通じていたので、まず、ご飯を圧力鍋で炊きました。
 ついでに、あたたまるよう、味噌汁も作りまして… 具材…塩蔵わかめ、高野豆腐、庭の人参。
 寒くなると布団にくるまる…しか、暖の取り方はありませんでした。
 ちょびちょび、ワンゼグで情報収集…暗くなったら、寝るしかないので…たまに起きては、ワンゼグ。
 9時前、電気復旧。
 「ガ〜」って。音がするので、少し経って下に行ったら、地震で落ちたドライヤーに、電源が入っていたみたいでした。 (もし、人がいないときに電気が通じていたら火事になっていたのでは?)
 テレビをつけ、ネットに走り。
 暖房をつけようとするが、つかず。オイル切れと表示。何かが壊れたのかと不安になるが、原因を追及するにも寒すぎて、動き気がしなくて、そのままに。
 10時過ぎ就寝。

 明るくなるとテレビを見て
 よく考えると耐震装置が働いたのではと思い、暖房のリセットボタンを押 すと稼働。
 ということで、地震の被害は、ものが落ちた程度ということだろうと…

 落ち着いて、洗濯。寝具も…たまった、洗濯物も。そして、掃除。ネット、日記を書き…

 その後、ご飯を食べ、どこか暖まることはできないかと風呂屋などを見つけようと思い、走るが当然、すべて休み。
 根性で開いていたのは、近所の古い蕎麦屋だけ…
 あとは、ガソリンだと思い、スタンドを見つけてみるが、どこも休止中。 
 途中で、岩手なのにマックスバリュー東北傘下のマックスバリューの店は通常営業の模様。
 中に入ると生鮮食料品等はなし…
 思ったよりは、秩序的な感じ。
 ただし、何かないものの入荷はいつかと?と聴く、客がいたりと混乱は混乱。
 ポテトチップスなどを仕入れて、ワオンで支払いして帰宅。
 結局、テレビ見ての生活。 被害が分かってくるにつけ、悲惨さが増す。

 そして、3日目の今朝。
 天気も良く、そうだね、こんな日だもの毛布の洗濯をしようと現在、洗濯 中。
 テレビで国道は、沿岸方面は、このあたりから通行止めとのこと。

 本日は月曜日ですが、学校がお休みですので明日の出勤に備えます。
 緊急のため、6時半集まりとなっていましたが、先ほど電話があり、7時半集合になりました。
 徐々に、日常生活には戻りつつある(かな?)ヘリの音がうるさい岩手の内陸部レポートでした。 
 3月15日
  卒業式が本日、無事終了しました。
 いつ余震がいつ起きるか…結構、ドキドキ感の式でした。
 結果として、特に何も起きることもなく、終えることができ、ホッと一息です。
 
 しかし、事態は、なかなかのものです。
 春休みのクラブ等はなし…このあと会うのは、一週間後の離任式。果たして、できるのか??
 送別会等の話もすべてキャンセルとなっていきました。

 当然、今日のお昼は、弁当という予定でしたが、予約状態も分からず…キャンセル。

 昨日の話。
 「やまや」に到着するも並んでおり、待つこと十数分。 買い物のも一人10品限定。現金のみ決済。
 商品があるのを見せないためか、ガラス面では日よけのすだれを垂れており
 今日の話
 「さくらの」。商品が少ないながらも、ほうれん草や豆腐などあり…
 しかし、心理的にないものが多いと必要以上にものを買い…
 当然、高級品以外は、日常生活、食べ物等売り切れ…
 通りのガソリンスタンドには、長い行列…
 ともかく、ぎりぎりの生活を市民が強いられているのが実情。 いつまでもこれだと限界に達します。
 この様子を見るに治安の悪化が心配です。

 3月16日
  昨日、津波の被災地に行った人たちやら伝聞やらを2次情報まで信用できる話だけ書きます。
 「大槌」に家族が住んでいる人の話。
 とにかく車を走らせ、現地に着くものの連絡が取れず…数件避難場所を巡り、再会。 内陸部の自分の家に連れてきたとのことです。
 そのときの家族の話では…
 津波の一波はさほどではなかったようですが、二波で相当なダメージを被 ったようで
 家の中の相当な高さまで、水が入ってきて…
 おぼれながらも、数十センチの空気が残ったためそこで息をして、波が引くのを待って逃げたそうです。
 相当お年のとったお婆さんが、びしょ濡れになったようです。 津波が来たのは、20分ほどだったとのことです。
 同様な話は、「宮古」に行った人からも聴きました。

 ここまで、ひどい被害を受けたのだから、なぜに、被災者は(私たちの感覚では、無理をしてまで)被災地を離れず、内陸とかに引っ越さないのだろうと不謹慎にも思ってしまいますが…
 私の父の会社の本社が「大船渡」の赤崎の奥の方にあるのですが、
 そこの本社の人たちが盛岡の支店に来たらしく…
 盛岡の支店の人たちは、皆、口々に盛岡にアパートを借りて、とりあえず住んだらと勧めたらしいのですが…  その方々は、自分たちにはやることがあると言って、大船渡に帰っていったそうです。
 無論、昨日、北上の「さくら野」に私が買い物に行った際に、それこそ、被災地の沿岸のジャージを着た中学生が下着を買っている姿を見たので、 内陸部に避難している方々も少なからずいると思われます。

 さて、話、変わって…

 昨晩は、「テレビ岩手」の地方番組が、被災地から「ビデオレター」を放送するという番組を行っており…
 この番組こそ、全国に伝えたい内容だと思い、その方法を考えるに
 そうだ、動画サイトを使えばよいのでは…という結論に至、 「テレビ岩手」にその旨をメールし…
 皆で、「テレビ岩手」に働きかけようというツイッターで呼びかけ…
 「ユーストリーイム」にリアルタイムでアップしてもらうことができました。
 その後、放送していることを知らせるのを、勝間和代さんのツイッターに広げるのを頼んだり…
 結果はよく分かりませんが、朝起きて、私のフォロアーが増えたことを見ると、たぶん、うまくいったのではと思います。

 何かしらやらないとならないと思っていましたので、少しでもお役に立てればと思います。

 ちなみに、私の住んでいる「北上」にも被災された方々がいて、そのお世話をしているNPOの知り合いなどもいます…
 
 3月17日
  昨日、今日のテレビを見ていると…
 「被災地への支援の輪」というのが広がりつつあり、どれを見るにつけても感謝の気持ちでいっぱいです。

 天皇を始め、他、有名人の被災地へのメッセージ。多くの被災したものへ心の温かさが伝わります。

 そして、何より…
 「阪神淡路大震災」の際、被災した神戸の多々方の応援は非常に心を打たれます。
 昨日見た、中学生が必死になって、声を張り上げ、義捐金を募る姿は、本当にありがたく思います。
 インタビューなどで、「僕たちは、震災を直接に知らないが、そのときに多くの人々が神戸のために温かい手をさしのべてくれたと聴いている」との旨の言葉を聞くに、心があつくなり、日本の、いや、日本人の復興への力強ささえ感じます。…

 思うに1995年(平成7年)1月17日(火)。
 大学院生だった私は、東京で、朝のニュースでそれを知り、倒れる高架の 高速道路に、
 一瞬、アメリカの映像でも流しているのかと勘違いするくらい、
 日本のことは思えない、いや、思いたくもない惨状でした。
 まさか、日本で、ビルとかが簡単に倒れたりするとは…多分、多くの日本人は思ったことでしょう。


 身近では、
 大学の先生の実家が、神戸にあるということで心配しましたが、ご家族は被災されたものの無事であるということで安心しました。

 あと、高校時の友人が当時、P&Gに勤めており、ご存じのように会社のビル自体が大変な被害にあったのですが、本人は、そのとき、家にいており無 事で…
 自宅の冷蔵庫などがバタバタと倒れたというものの脱出…
 会社も休みになったので、大阪まで、それこそ、見ず知らずの人に助けられ到着、飛行機を経由して、秋田の鹿角の実家に戻ることができた
 ということを、本人から電話で数日後に聞くことができました。

 あれから、16年が経って、神戸の復興ともに私の中で、このような遠い思い出になってしまっていたら、この大震災でした。

 そうだな。一生懸命に、募金をしている中学生のみなさんに言いたいことがあるとしたら…
 君たちが大人になって、働くようになった頃には、今回の被災地もそれなりに復興、いや、まだ、回復くらいかもしれないが、他の人とたちを受け入れるくらいにはなっていると思うので…
 是非、遊びに来て、あの頃、僕たち道ばたで義捐金を募っていたので、どうなっているか見に来ましたと
 三陸のおいしいものでも食べに来て欲しいものだと思います。

 昨日、今日のテレビを見て、思ったことでした。
 
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