「3.11 あの日から2年 わが子へ〜大川小学校 遺族たちの2年〜」2013年3月9日 
  テレビを見て、思わず、書かずにいられなかったこと。
「3.11 あの日から2年 わが子へ〜大川小学校 遺族たちの2年〜」
2013年3月8日(金) 午後10時00分〜10時49分
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0308/index.html
 私たちは、この震災から、何を学んだのだろう?
 2年がたち、人々が復興に心がやっと向かうようになり、今年はそのようなテレビ番組が多いように
感じます。
 そんな中で、ちょっと異例ともいえるような番組でした。
 整理のつかない問題。
 私たち教員は、この問題に真剣に学ばないと思います。
 岩手では、先の震災で教員がいる状態の学校で命を落とした事例がないとのことで、どうも、
これらの研究が今ひとつされていない気がします。
 この大川小学校の事例を真剣に受け止め、もしかしたら、このようなことがあったかもしれないと
常に危機感を持って、今後、学校運営にあたるべきかと考えます。

 さて、今回の中身。実にシビアな問題をいつくか提示してくれています。
 第一が、自身が教員でありながら、大川小学校に通っていた児童が学校で亡くなったということ。
 第二が、大川小学校の担任の教員の父母がその後、どうこの事態と向き合ってきたのかということ。
 現在、大川小学校の津波の対処について、亡くなった児童を持つ保護者(遺族)は、納得のいく
回答が得られなかったとのことで、当該教育員会に、真相の解明を求めて、記者会見を起こし、
その真相を改めて、教育員会が専門家を交え、検証し、回答するということになりそうです。

 そこで、遺族の一人から、その時の教師に対しては、恨みはないとの会見を新聞で見た教師の両親。
そして、隣に実は、教師の亡くなった教え子の祖母が住んでいたという事実。  最後に、その祖母が、
教師の両親が、一生懸命に育てた花ボタンを大川小学校に飾りたいと申し出、それを飾る日には、
両親は、出席を見合わせ、こっそり、後日、その飾られた様子を見に行く…

 教員をしている私としては、涙なくては見られない内容でした。
 埃ある我が子が、可愛い子供たちの加害者なのか…

 ここからは、自分の考え

 もし、大川小学校で、遺族が納得できないということで、民事訴訟がおこせば、当然、監督責任者で
ある、学校長を含む教職員の責任についての議論になり、
 「学校事故」として扱えば、通常、教職員側に過失ありとして、賠償責任が課せられる可能性は十分
に高い
(国賠法の関係上、直接的に、個々の教職員が賠償責任を直接に負わされる可能性は、 彼らが亡くなっ
たいうことも含め、まずないと思うが…が、故、過失責任を負わせやすくなるだろう)。

 そうした、過失責任を問われてしまうと、もっと、この教師の両親は、肩身が狭かろうと考えると
この国の「学校事故」の制度は、何ともとも思いますが…それは、さておいても…

 ま、いずれにせよ、岩手県は、となりの宮城県の事例をもっと、しっかりフォローすべきかと思った
話でした。

 思わず、書かずにいられなかったテレビ番組でした。

 震災から2年〜2013年3月11日〜
 
 今日は、3月11日。
 かの地震から2年。黙祷を行った日。
 今年は、昨年と違って、平日。
 
 そして、今日は卒業式予行。
 あの時も、卒業式の予行の日でした。

 昨日もたくさんのテレビ番組を見ました。
 2年たち、様々なことが新しい事実として出てきたようです。
 半面、未だに進まない復興の様子も…

 私たちは、これから何を考えていけば良いのでしょうか。

 様々なテレビで言っていたのは、
記録をしっかり残すこと。
 確かに、そういうことなのかと思ったりもする2年目の寒き日です
「石巻」震災から2年経って〜2013年3月16日〜
  昨日は、ブログの方に、あまりに頭にきた朝日新聞の記事について書くため
に、この話を書けませんでした。
 で、ここに一昨日のことを書きます。
 ブログには、明日、載せます。

 昨日は、遠野市内の中学校数校で、合併に伴う閉校式が行われ、その案内が
来ておりました。
 私は、閉校する2校から案内がありましたが、どちらも、同じ日に行われる
こと、また、今年、進路指導主事をやっている関係上、万が一を考えて、欠席
とすることにしておりました。

 しかし、進路関係の仕事が一段落したのもあり、仙台に用もあり、途中、
石巻を見てみたいと計画を立てたのです。
 先週で震災から2年。
 多くのテレビ番組も特集を組んでいましたし…

 生きる私たちは、この震災の記録を残すこと。
これが大事だと思ってきました。

 石巻線の旅は、2度目。
 前回は、仙石線のバス代替えの実態を見に行く旅でした。
 ということで、石巻は、駅だけ見て素通り。

 今回は、電車の旅なので、町中しか見ることは出来ませんが、
とりあえず、震災から2年たっての様子を見に行こうという計画です。

 いろいろ調べると、再開やら新しく出来たものがあるということで
それを楽しみに、そして、ご飯を食べてくるというものです。

 駅から、石ノ森漫画館まで、歩いてみることにしました。
しかし、残念ながら漫画館は、リニューアルに向け、閉館中。
来週にリニューアル開館だそうです。
 で、旧北上川沿いを歩いて…
 ちょい、ちょい、石ノ森先生のキャラクターと出会い、写真を撮り
 無論、震災の爪痕も、写真に納め。

 「石巻まちなか復興マルシェ」に到着。
 賑わっておりました。
 ウロウロして、「石巻ぎょうざ」を食べました。
 案内には、水餃子、焼き餃子、揚げ餃子のすべて、オールがおすすめ
とありましたが…
 勇気なく、揚げ餃子と焼き餃子+ビールといただきました。
 野菜不足解消って、書いてあったとおり、栄養補給。
堪能いたしました。

 そのまま、川沿いやら商店街の方やら歩き…
確かに津波は建物の1階の高さほど来たようようで、未だ半壊の建物も
あり、津波と言っても様々なのだと思わされました。
 さらに、地形的に近くに山がそびえており、津波も複雑な動きをした
のだろうと思いましたし…
 多分、焦げあとだろうかって、感じの建物もありました。

 ここまで、来たので石巻名物でも食べようと思いまして…
思いついたのが「石巻やきそば」。
 商店街で数少なく営業しているお店をみつけ、入ってみました。
が、人がいない…
 しばらくして、それらしき人が店に入るのを見て、追いかけて、
また、店に入りまして…
 「石巻焼きそば」、いただきました。
 お店に、もう一人、お客さんがいて、話しかけられました。
 震災の話など聴きました。
 こっちより、あっちが大変とか…って、話で…
 あと、「石巻やきそば」は、「横手」のそれに似てるでしょう…って、
話をされましたが、
 横手の方が、どろソースだし、肉にも特徴があるので、
「石巻焼きそば」は、私が卵焼き焼きそばを作るのに近い味でした。
ソースは、ブルドックのウスターソースでしたし…
ま、人に作ってもらうものは、おしいって感想です。
ただし、味の素を目の前で入れられるのは、ちょっ…
値段400円也。ということで、満足。


 最後、「石巻立町復興ふれあい商店街」。
 駅からほど近い距離です。
 こちらは、それほど、人もおらず、閑散としておりました。
 私もちょっとだけ、見て終わりました。

 そして、駅に戻り、仙石線に乗って仙台へ。

 例のごとく、仙石線は、途中からバス代替え運送。

 風景が変わったのは、野蒜あたり。
 高台移転の準備か、山を切り崩す工事がしておりましたし、
堤防のあたりも工事しておりまして、以前とバスは違う場所を運行して
おりました。
 また、松島海岸に向かう途中の線路を直していたり、仙石線も復旧に
向け工事の箇所がいくつか見られました。

 ということで、震災から2年。

 宮城の方面は、少しずつですが、復興に向け、歩いているなぁ…
って感じでした。

 以上、レポートでした。
 
     
ロボコンが迎えてくれ  「津波襲来の地」  まだ、残る爪痕
 
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 津波はここまできた  石巻焼きそば ふれあい商店街 
 
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