○場所について

 位置的には、遠野市の東に位置し、市内を流れる猿ヶ石川
の支流の合流点より東側にある。町内を流れる川が作った
盆地となっている。            

 
日影橋から「猿が石川」を望む

○交通について

 遠野市には、JR線を利用する場合は、釜石線を利用しま
す。(釜石線については、このホームページの遠野市をご覧
下さい)綾織町には、東から岩手二日町駅、綾織駅がありま
す。遠野駅より東側、花巻方面になります。(急行は止まりま
せん)
 なお、自動車でお越しの場合は、盛岡方面からは国道396
号線、花巻方面からは国道283号線、北上方面からは国道
107号線(途中から国道283号線)からこれます。綾織町は
これらの国道の「遠野市」の入り口にあたり、2つ国道の合
流点になります。                  

 

○綾織の歴史について

 綾織町にも縄文時代の遺跡が少なくはなく、この時代は、
猿ヶ石川の南川の小高い丘などに縄文人が住んでいたもの
と考えられます。町内の「新田遺跡U」で大遺跡調査が行わ
れ、全国的にも珍しい大型住居跡が発見されて話題になりま
した。 (現在は、後の調査のため、土をかけ埋め戻しを行
いました。)                     

 中世に入ると「阿曽沼」氏がこの地を治めましが、家臣の反
乱によって、この地を追われ、「南部」氏の領地となりました。
 江戸時代には、「盛岡南部」氏の一族である「八戸南部」
氏が、八戸から遠野に移り、領主となりこの地を治めました
が、「阿曽沼」氏の家臣達は、「八戸南部」氏に雇われまし
た。そのような人たちが、綾織町に多くいたようです。彼ら
は、遠野市の偉人となっています。「南部」領として、綾織町
は遠野通り「下郷」の一部とされていました。       

 江戸時代は、身分制度の厳しい時代でした。そのようなこ
とは農民でも同じでした。身分によって住居においても様々
な規制があったようです。南部領内で有名な「南部曲がり
や」であっても、かなり違いがあります。(詳しく知りたい人
は、遠野ふるさと村で説明を受けて下さい)       

 綾織町には、南部曲がりや「千葉家」がありますが、これ
は、当時の豪農としての造りであるといわれています。  
 明治時代には、上閉伊郡綾織村としてかつての地区を合
併して現在の綾織町の形ができました。          

 戦後に(1954年)、1町7村が合併して遠野市となり現在に
いたっています。              

○現在について

 綾織町の名前の由来は、「遠野物語」によると六角牛山
から下りてきた童が、織った織物=「綾織」からきているとさ
れていますが、綾織町内では、また違った昔話があります。 
 なお、その「綾織」は、町内の光明寺にあります。
 綾織町内は、遠野市内でも平地が多く稲を中心とした農
業が行われています。

 ○「綾織」について、ここをクリックして下さい。
      

 最近、町内の東側に道の駅「風の丘」ができ、観光地とし
ても開かれていく、可能性をひめています。

 ○「風の丘」についてはここをクリックして下さい。